「世界の中のパレスチナ問題」を読んで(2)
の、おもに第二章「列強の対立に翻弄されるユダヤ人とアラブ人」の項について、メモしていこうと思います。
ユダヤ人解放と国民国家の形成
フランス革命以降、ヨーロッパ諸国でユダヤ人解放令が出されて、ユダヤ教徒はキリスト教徒と法のもとに平等になってゆきました。
この過程において、ユダヤ教徒のなかでも改宗してそれぞれの国民になろう、という動きがありました。ところが、新たな形で反ユダヤ主義として、「改宗してもユダヤ人はユダヤ人であり続ける」という人種主義的な考えが広がり始めます。
近代における社会進化論や優生学といった疑似科学の広まりのなかで、ユダヤ人が人種とみなされるようになったといいます。
- 優生学(eugenics):人類の遺伝的な素質を改善するために悪質の遺伝形質を淘汰し、いいものを保存することを研究する学問で、差別と結びつきやすい。1883年にイギリスの遺伝学者ゴールトンが提唱し始めたと言われる。
適者生存の競争原理の結果、優秀な民族が生き残る、という考え方が帝国主義時代の白人支配者層にはとても都合がよかったので、広まったようです。
ポグロムによるパレスチナへのユダヤ人移民の増加
ポグロムとは、ユダヤ人にたいして行われる迫害行為のことです。とくに19世紀後半にベラルーシやウクライナで、ユダヤ人がコサックなどの蜂起のさいに襲撃の対象となったことを言うそうです。
これがユダヤ人のパレスチナやアメリカへの人口移動をもたらしたといいます。
政治的シオニズム
19世紀末に政治運動としてシオニズム運動を展開したのが記者のテオドール・ヘルツルです。
ヘルツルはフランス軍のユダヤ人大尉だったドレフュスがドイツのスパイであるとされた冤罪事件と、それを契機にフランスに広がった反ユダヤ主義的な空気に衝撃を受けて、「ユダヤ人国家」を出版、翌年にはシオニスト会議を開催しました。
社会主義シオニズム
ユダヤ人の復興は労働者としてパレスチナに入植して労働を行うことで初めて可能になる、という考え方を社会主義シオニズムと言うそうです。
前述したような理由からユダヤ人は高利貸しなどの非生産労働に集中的に携わっており、それが不健全な状態をつくりだしているのだ、としました。
この社会主義シオニズムはのちにイスラエル労働党に発展し、イスラエル国建国後、三十年近くにわたり与党となったそうです。
宗教シオニズム
パレスチナの初代首席ラビとなったクックは、シオニズムを推進するほど、この世へのメシアの来臨が早くなる、という考えをもっていました。人為的にメシアの来臨を早められるという考え方は、超正統派のユダヤ教徒からは反対を受けたそうです。
文化的シオニズム
パレスチナへのユダヤ人の入植はアラブ人との衝突につながると注意を喚起した人物もいるそうです。アハド・ハアムはあくまでもパレスチナは精神的中心地であるべきだと主張しました。
イギリスの三枚舌外交
第一次世界大戦中に、イギリスが結んだ相反する3つの約束はあまりにも有名ですね。
フサイン・マクマホン協定:メッカのシャリーフ(予言者ムハンマドの末裔でメッカの守護者)であるフサインに対し、イギリスが「オスマン帝国と戦えば見返りとしてアラブ国家樹立を約束」するとした協定
サイクス・ピコ協定:フランスに対して、「戦後オスマン帝国の東アラブ地域をイギリスとフランスで分割する」とした協定(パレスチナ地域は国際共同管理、とされた)
バルフォア宣言:イギリス国内のシオニストに、「ユダヤ人のための郷土の設立に賛成する」とした宣言を表明 バルフォア宣言には、「パレスチナに存在する非ユダヤ所諸コミュニティ(existing non-Jewish communities in Palestine)」という言葉が出てくるのですが、筆者はその表現がそれまでなかったアラブとユダヤの民族的対立の実体化を表現する、政治的に重いものであるといいます。
1920年 敗戦国オスマン帝国の領土をめぐるサンレモ会議の内容
パレスチナとイラク => イギリス委任統治 レバノンとシリア => フランス委任統治
植民地支配ではなく、移民統治という言葉が使われた背景には、ウィルソン米大統領が民族自決の原則を提唱したために植民地支配という言葉は使えず、mandate(委任統治)と言うしかなかった、という理由があるそうです。
イラクについて
筆者はイラクは「イギリスが石油欲しさのためにまったく違う文化的背景をもつ3つの集団を一つの国家の枠内に押し込めてしまった結果できあがった国」と表現しています。
3つの集団
- 北部:クルド人(多数はスンナ派)
- 中部:アラブ人(スンナ派ムスリム)
- 南部:アラブ人(シーア派ムスリム)
この「人工国家」イラクの国王の座には、オスマン帝国に対する反乱を導いたハーシム家のファイサル(旧シリア国王)が就きます。
フサイン・マクマホン協定を事実上反故にしてしまったイギリスの、妥協案であったといいます。
イギリスの対パレスチナ外交政策の転換
イギリスはナチスドイツとファシストイタリアとの戦争を遂行するにあたって、戦略転換を行います。 帝国防衛のために、シオニストとの同盟よりもアラブ諸国との友好関係を重視することにしたのです。
日本軍がアジアのイギリス領を占領し始める中、インドへの生命線であるスエズ運河を守るためにアラブ諸国との関係を強化する必要があった
アラブ側に味方したからといって、シオニストが反ユダヤ的な枢軸側に協力する可能性はきわめて低かった
といった理由もあるそうです。
その転換は、以下のような行動となって現れました。
- パレスチナ分割案撤回
- アラブ、ユダヤ双方の代表が出席するロンドン円卓会議の開催の提案
苦境に立たされたシオニストは、アメリカによるシオニスト支援に期待するようになります。
シオニストのジレンマ
まとめると、
- ユダヤ人のパレスチナ帰還をもってユダヤ民族史は完成する
- シオニストにとってはホロコーストという悲劇的事態は、反ユダヤ主義の広がるヨーロッパにおいて、予想できたことであり、犠牲となったユダヤ人は上記のシオニズムの大義を信じなかったという責任がある
- しかしながら、多くの同胞ユダヤ人を救えなかった責任を負わなければならない
というものです。
国際連合にパレスチナ問題の解決を委託
イギリスが設立した、ユダヤ難民をパレスチナに受け入れることができるかを調べた調査委員会の報告では、
「パレスチナだけではユダヤ人の移民先の求めに応じることはできない。全世界は難民すべての再定住にたいする責任を共有している。」といった勧告がなされています。
しかしながら、イギリス政府は調査団の勧告の実施は不可能であるとして、パレスチナ問題の解決を国際連合に委託しました。
国連によるパレスチナ分割の決定
国連はイギリスの委託を受け、パレスチナ特別委員会を設立します。 しかしながら委員会は全会一致の結論を見つけられず、結局「報告」としてパレスチナ分割の多数派案と、パレスチナ連邦国家の少数派案が記された文書を国連総会に提出しました。
そして1947年、パレスチナ分割が賛成多数で採択されます。
これにより、パレスチナはアラブ人国家、ユダヤ人国家、国際管理地域へ分割されることになります。