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悩みたくないけど、悩んじゃうあなたに。「悩む力 --姜尚中」内容と感想。

悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

どんな本なのか

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苦悩する人間の価値の序列は、道具人のそれより高い

--フランクル

伝統的な慣習や信仰心が、かつては悩みの海の夜空に輝く星になっていた。 しかし、もはやそうした伝統や信仰心の残りがは消え失せ、現代人にとっては悩みの海はただ暗く、希望のないものに思えるかもしれない。悩むこと自体にも、価値を見出せない。悩みが、災厄にしか思えない。

しかし、そうだろうか。「悩む力」にこそ、生きる意味への意志が宿ることを、文豪・夏目漱石や社会学者・マックス=ウェーバーを手掛かりに考えてみるというコンセプトの書。


「知性とはどうあるべきか」「苦しみの元となる自我とは」「自由とは」「働くとはどういうことなのか」といった9つのテーマをもとに、「どのようにして悩みを乗り越えるか」「悩みとどう生きるべきか」について提言しています。


今回は「自我」「知性」「働く」に絞って内容をご紹介します!

現代だからこその生きる苦しみとは

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誰もが新しい情報技術とコミュニケーションを通じて繋がっているように見えながら、人と人との関係は消えゆく泡のようにはかなくなっている。多くの人がかつてないほどの孤立感にさいなまれているように見える。そうでなければ、これほどの自殺者の増加はないだろう。

加えて、「変化」のスピードが猛烈に速いということが現代人のたいへんな重圧になっている。不動の価値がほとんどなく、「変化するか、死か」という状況。それでいて、人間は「不動の価値」を求めてしまう。変化を求めながら、不動のものを求める。現代人は、相反する欲求に精神を引き裂かれている。

どうして夏目漱石とマックス・ウェーバーなのか

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いまを生きる我々の苦しみをたどると、西洋の模倣を始めた明治時代に行き着く。

そのとば口に立って、人間の行く末を見つめていた、慧眼の持ち主の一人が夏目漱石である。

漱石の作品には「文明というものは世に言われているほど素晴らしいものではなく、文明が進むほど人の孤独感は増し、救われ難くなっていく」という趣意のものが多かった。

21世紀最大の社会学者と呼ばれるマックス・ウェーバーは、社会学の中でも「世界宗教(キリスト教など)」にアプローチして、膨大な著作を残した。

著者は、その著作を読んでいく中で、夏目漱石とウェーバーが似ていることに気づくようになったという。

ウェーバーは近代文明の根本の原理を「合理化」であるとして、それによって社会が解体され、価値が分化していく過程を解き明かした。

それは、漱石と同じように、文明が進むほど人間が救いがたく孤立することを示していたのだ。

ふたつの世紀末

漱石とウェーバーが生きたのは、19世紀末から20世紀にかけてであり、われわれは 20世紀末から21世紀にかけて生きている。

つまり、100年の開きを挟んだ、「二つの世紀末」ということになる。

漱石とウェーバーに、「いま」私が注目するのは、二つの世紀末が非常に似通っている思うからだ。

1. ふえる心の病

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19世紀末、不況に見舞われたヨーロッパ諸国はさかんに他国に進出、日本も帝国主義にならった。資本主義は「国家のためにある」ものであり、「国民のためにある」ものではなかった。人間も消耗品のようにみなされ、国家の統制下に置かれた。

いまの日本でも、ニートやフリーター、非正規雇用の人々があふれ、社会問題になっている。人々を漏らさずトレーニングし、人材として活用するシステムが機能不全に陥り、多くの人が打ち捨てられているようなものだ。

おそらくそういった状況と関連して、うつやひきこもりとなって社会に溶け込めない人が後を絶たない。100年前の日本でも「神経衰弱」という心の病が社会問題になった。

2. スピリチュアルの流行

社会現象の面でも、19世紀末のヨーロッパでは「世紀末的」と形容される病的な文化が流行したが、現在のインターネットや仮想空間に似たものを感じる。


これらの状況をみるに、私は近代のとば口で発生した問題が、戦争といいう中間点で折り返して元に戻ってきた、という気がする。

「私」とは何者か

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「自分の城を築こうとする者は必ず破滅する」 ーヤスパース

在日朝鮮人として「自分が何者なのか」について悩みつづけていた著者。20歳のとき、両親の母国、韓国をおとずれたことで、「私が人生に対して問いかける」という態度から、「人生が私に問いかけている」という感じかたに変わったという。

自我が何かよくわからない、という人に著者は漱石の小説を読むことをすすめている。漱石は自我の問題に徹底的にこだわり、生涯それを書き続けたからだ。筆者はとりわけ漱石の「心」に感銘を受けたという。

心の主人公は、大きくなる自我にとらわれ、破滅してゆく。

誰もが、自分の城を強固にして、堀も高くしていけば、自分が立てられる、守れる、強くなれると思ってしまう。

しかし、そんなことはない。

ヤスパースが「自分の城を築こうとするものは必ず破滅する」と言ったように。自分の城だけを作ろうとしても、自分は立てられない。

自我というものは他者との関係のなかでしか成立しないからだ。

個人の心の問題を「脳」や「スピリチュアル」で解決しようとしたり、わざと鈍感になってみたり、周囲に心の壁を作ってみたり...。

こういうもので解決できるものではない、と筆者はいう。

正解はこれだ、と言う力はない、しかし、漱石はひとつ大事なヒントをくれていると筆者は指摘する。

「まじめ」であること

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まじめ、というのは中途半端の対極にあることば。

私は死ぬ前にたった一人でいいから、他人を信用して死にたいと思っている。あなたはたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか。--夏目漱石「こころ」より

まじめに悩み、まじめに他者と向かい合う。そこに突破口があるのではないか、と。

とにかく自我の悩みを掘って、掘って掘り進んでいけば、他者と出会える場所まで辿り着くと思うのです。

アイデンティティについて長年悩んできた著者だからこその、力強い言葉だ。

知ってるつもりじゃないか

著者は、「物知り」「情報通」であることと、知性は別物であると考えている。

ITに通じた若い人に、変に老け込んだ印象の人がいる。最初からものごとの先行きを予想してやめてしまうような。

著者は、これは、ものごとの原因と結果のパターンを情報として蓄えて、「知ったつもり」になってしまっているのが原因ではないか、という。

科学はなにも教えてくれない

マックスウェーバーは、人間の調和ある総合的な知性の獲得を断念することが、合理化の宿命であると考えていた。

ダンテになぞらえて、「すべての望みを捨てよ」と説いてすらいたという。

われわれは、未開の社会よりはるかに進歩していると思っている。しかし、間違いだ。われわれは電車の乗り方を知っていても、車両の動くメカニズムを知らない。 しかし、未開社会の人間は、自分たちの道具についてはるかに知っている。 したがって、合理化は生活についての知識を増やしてくれているわけではないのだ。

どのような知性を目指すべきか

筆者は2つの考え方があるとしている。

1. 「なにをすべきか」「なにが好きか」「なにを知るべきか」が調和しないということを覚悟しつつも、貪欲に知の最先端を走ってみる 、という知のあり方
2. 人間の肉体や感覚には限界があるのだから、自分の世界を広げるのではなく、身の丈にあわせてサイズを調整し、その世界にあるものについてはほぼ理解できている、という知のあり方

筆者は、現代において見落とされている、「前近代的な」宗教の伝統や習慣にも、人間がほんとうに知るべきものはなんなのかを考えるヒントがある気がしている、という。

「信じる者」は救われるか

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「信じる」という行為は、「ものごとの意味を問う」という近代的な問題と密接に関係していると筆者は考える。

前近代における宗教は、人びとの人生と一体化した、共同体の生き方そのものであり、制度であり、「私はなにを信じたらいいのか」という問いが生まれなかった。

だから、かつての人びとは「私の人生はいったい何だったのか」という飢餓感を感じることがなかった


宗教を抜きにして、自分がやっていること、やろうとしていることの意味を考える。これは、非常にきつい要求だ。

現代では、人びとが情報の洪水と化したメディアにさらされ、何を信じたらいいかわからない・何も信じるものがない、と無機的な気分になっているのではないか。

だからこそ、その虚無感を満たすものとして、スピリチュアルが魅力的に映っているのではないか。


しかし、著者はそれらを否定はしていない。

人がそれによってなんらかの答えや満足感を得ているなら、私はそれでいいと思います。

それが、その人にとって信じるのに足るものであるかどうかが大切であって、そう考えるかというのも個人の自由なのです。

だから、究極的には「信じる」とは「自分を信じる」ということになると思います。

・・・なるほど。

よくある昼ドラの「あなたを信じてたのに...!」って結局は「あなたは信じられるという、自分の判断を信じれると信じた」わけだから、相手を怒るのは筋違いなのかもしれない。



一行要約と感想。

要約すれば、「まじめに悩んで欲しい、それが生きる力になる」ということだと思います。


私が人生で一番悩んだのは中学生のときで、地元のいろいろな子が集まったわんぱくな小学校から、私立の女子校に行って、いろいろなカルチャーショックがあって、今までのやり方が通じなくて非常に悩みました。

周囲の話題は芸能人と、お金の話。全然興味ありませんでした。コミュニケーションがうまくとれない、別の動物のようだと感じたこともありました。


そのとき、なんとか上手くいく方法を探そうと、読書に励みました。

そのとき得たもの、考えたことが人生の軸になっていると思うことは多々あります。


大学に入ってからというもの、包容力のある環境のなかで私は悩むことを忘れていたような。

そろそろ、様々な漠然とした不安や違和感について腰を据えて悩もうかな、と思いました。

この本は「悩むこと」「悩んでしまう人」をトコトン肯定してくれる本です。